2009年6月21日日曜日

EUにおける新型インフルエンザA(H1N1)の疫学面の研究動向

 
メキシコや北米を中心とするH1N1の世界的感染拡大のニュースが毎日報道される中、5月15日にEUにおける国際感染予防機関である「欧州疾病予防管理センター( The European Centre of Disease Prevention and Control:ECDC)」(筆者注1)が発刊するオンライン・ジャーナル“EUROSURVEILLANCE” (筆者注2)が手許に届き、その中に特集論文「なぜ、メキシコのデータが重要なのか」があった。
 筆者は感染症(数理)問題の専門家ではないが、一般メディアや米国CDCやWHOといった専門機関から日々伝わるH1N1に関する情報は、いつ世界的なパンデミックになるのか、第二波はいつ来るのか、日常の予防策はどうすればよいのか等で、本来の専門疫学的な視点に立ったものが少ないように思う。(筆者注3)(筆者注4)
 そこで、今回のブログでは“EUROSURVEILLANCE”の第14巻19号の論文の中から小論文“Why are Mexican Data Important?”の概要を紹介する。(筆者注5)
 なお、6月4日発刊の“EUROSURVEILLANCE”第14巻22号においてオランダ・ヨトレヒト大学研究員の西浦博氏等の理論疫学研究グループが「日本にみる新型インフルエンザA(H1N1)の潜在的感染拡大とその年齢特性(Transmission Potential of the New Influenza A(H1N1)Virus and Its Age-Specificity in Japan)」を発表し、わが国における感染拡大と基本再生率について分析している。
 一方、本原稿を執筆中に厚生労働省が都道府県等の新型インフルエンザ担当部長等宛5月1日付事務連絡で「新型インフルエンザ((Swine-origin influenza A/H1N1)に係る積極的疫学調査の実施等について」を発出している情報を得た。(筆者注6)
 本来、このような専門的な報告書の紹介はわが国の「国立感染症研究所」および「国際疾病センター(DCC)」や関係医療研究機関が行うべきものであり、本論文の意義も含め正確な解説を期待するものである。(筆者注7)


1.筆者の紹介と報告書の意義
 本報告書は、ECDCフランスチームのCoulombier D(筆者注8)、J Gieseckeによるメキシコにおける新型インフルエンザA(H1N1)の集団発生(outbreak)から感染の推定に関する重要な変数とりわけ増加率(R)に関する公開された数字を使ってとりまとめた共同発表である。

2.増殖率(R)とは何か
 感染の増殖率は2つの要素により決定される。(ⅰ)個別の事例における新しい感染者数、(ⅱ)1つの事例において感染(infectiousness)が始まって第一次感染者から第二次の感染が始まるまでの時間である。第1の要素が増加率(reproduction rate)で、通常“R”で表示される。仮に疾病が広く国民に拡大するという感染力が高い場合は「基本再生産率(1人の感染者あたりが生産する2次感染者の比率)(basic reproduction rate:R0(ゼロ))が使用される。“R”値は4つの条件に基づき製造される。すなわち、(ⅰ)感染者と感染可能性のある1回の接触における感染リスク、(ⅱ)集団内でそのような接触をする頻度、(ⅲ)当該事例における伝染力の持続期間および(ⅳ)集団内における感染者の割合である。もし、R>1であるならば、1人以上の新しい感染者が感染し、拡大し続けることを意味する。また、R<1であるならば、いくつかの事例があったとしてもこの蔓延は絶滅することを意味する。1つの事例における感染から第二感染事例にいたる期間を「世代交代時間(generation time:Tg)」といい、仮に正確な価値をどのように推定しようとも生物学的には普遍(constant)なものである。

 “R”を決定するこれらの要素の価値は、感染の状況の中で疾病に関する科学的知識および集団の免疫状況(immunity status)に基づき計算可能である。しかしながら、蔓延時において通常“R”の値は、蔓延曲線(epidemic curve)の分析または感染連鎖(transmission chains)の研究から導き出される。

 現在いくつかの研究が、メキシコのデータに基づき新型インフルエンザA(H1N1)に関する“R”(または“R0(ゼロ)”)および“Tg”を推定すべく試みられている。“EUROSURVEILLANCE”において発表された論文(注記1)の著者は1つの指数適合およびリアルタイム推定モデル(Exponential fitting and real-time estimation model)を使って“R”値を2.2~3.1と推定している。この推定値は、「総合科学ジャール:サイエンス」(注記2)で発表されたメキシコのラ・グロリアの集団発生で限定された確認された3つのモデル(指数適合(exponential fitting)モデル、遺伝子解析(genetic analysis)モデル、および2つのSIRモデル(筆者注9))から導きだされた数値である1.4~1.6よりも高い数値である。

3.なぜ“R0(ゼロ)”が公衆衛生にとって重要なのか
 増加率(R)は、感染拡大の効率性を反映し、従ってまた公衆衛生当局が集団発生の封じ込めや緩和措置をとることに努めることに重要な意味合いを持つ。例えば、“R0”が1.16であれば14%の場合で最終的に感染の遮断が可能であり、他方3.1%であれば人口全体のランダム混合による接触を68%阻止することが必要となろう(筆者注記:“R0”が1より小さい場合は感染率はゼロであるが、1以上になると感染率が急増し、また集団サイズが大きい場合は増加率が小集団の場合より高くなる)。

4.なぜ“R0(ゼロ)”が季節性インフルエンザと新型インフルエンザで異なるのか
 季節性インフルエンザの“R0”に関するいくつかの研究(注記4)が行われ、1.2~1.4という値が出ている。しかしながら季節性インフルエンザ菌に関し、国民のほとんどが過去の季節的流行からの免疫性をもっており“Ro”値を低くしている(実際この状況では“Ro”と呼ぶべきでない)。疾病の感染流行(epidemic)に関し、感染当初のの免疫性“R0”は時間的経過後においてより高くなる。従って国民全体への感染比率は減少する。また、事例について遅れた報告は“R”の推定に影響を与える:すなわち、この問題の研究結果への固執や前述した問題があるからである。

5.「インフルエンザ R0(ゼロ)」とは
 感染者が非感染者に接触することによる感染リスクは、現状の感染持続性において、基本的な点で生物学的には普遍である(仮に感染の時間的経過の中で変化するとしても)。しかしながら、接触の頻度は集団や集団グループ間でかなり変化する。例えば学校や日中育児(ディケア)の接触は大人とに比べると接触頻度が高く(注記5)、生活文化や家族の規模、社会相互作用(social interaction)により変化する。

6.なぜメキシコからの“R0(ゼロ)”が重要なのか
 なぜメキシコのデータに基づく“R”や“R0”の研究がそれほどに関心を持つのか疑問を投げかける人がいよう。その結果はEUにおいて適用可能なのか。接触の運命はメキシコの場合より高いかも知れない。しかし、他方、感染流行はすでに一定期間動き出しており、感染者(non-susceptibles)の割合はメキシコで上がってきており、EUの状況においても感染者総数とともに実際の高い“R0”値に基づく取組みが必要になるであろう。

 下図(2009年4月―5月のメキシコ、カナダ、米国およびEU/EFTAの累積感染者・死者数)にあるとおり、我々はメキシコ、カナダ、米国およびEU/EFTAの国々の累積感染者・死者数を日々報告してきた。同図の片対数目盛り(semi –Logarithmic scale)によるとEUの 状況はメキシコの場合と大変相似していることが明らかである。EUにおける時間的差に基づく推定は困難であるが、約1,2か月遅れと思っている。もし世代交代時間がメキシコとEUで同一であると考えるとー極めてもっともらしい説明といえるかもしれないがーメキシコの“R0”の推定はEUでも適用可能と言うことになる。まさにちょうど「1」のすぐ上の“R0”値は封じ込め作戦の成功を意味しよう。

(注記1)Boëlle PY, Bernillon P, Desenclos JC. A preliminary estimation of the reproduction ratio for new influenza A(H1N1) from the outbreak in Mexico, March-April 2009. Euro Surveill. 2009;14(19):pii=19205. http://www.eurosurveillance.org/ViewArticle.aspx?ArticleId=19205
(注記2) Fraser C, Donnelly CA, Cauchelmes S, Hanage WP, Van Kerkhove MD, Hollingsworth TD, et al. Pandemic potential of a strain of influenza A (H1N1): early findings. Published 11 May 2009 on Science Express. DOI: 10.1126/science.1176062. http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/1176062(筆者注:次のURLで全文(全9頁)が読める。)
(注記3) Rambaut A. Human/Swine A/H1N1 flu outbreak - BEAST analysis. http://tree.bio.ed.ac.uk/groups/influenza/wiki/178c5/BEAST_Analysis_29_Apr_2008_-_Andrew_Rambaut.html
(注記4) Chowell G, Miller MA, Viboud C. Seasonal influenza in the United States, France, and Australia: transmission and prospects for control. Epidemiol Infect. 2008;136(6):852-64.
(注記5) Keeling MJ, Eames KT. Networks and epidemic models. J R Soc Interface. 2005;2(4):295-307.


(筆者注1)ECDCの研究者グループは、2009年2月19日付の“EUROSURVEILLANCE”の中の論文「Human case of swine influenza A (H1N1), Aragon, Spain, November 2008」でスペインの養豚場経営者からの情報入手に基づき2008年11月に豚インフルエンザウイルスを検出し、豚インフルエンザが大流行するとの警告を行っている。

(筆者注2)現在の“EUROSURVEILLANCE”は、ECDC(欧州疾病予防管理センター: The European Centre of Disease Prevention and Control)が発行する週刊感染症、監視、予防および管理に関するオンライン科学専門ジャーナルである。1995年に設立され、2007年3月までは欧州委員会、フランス国立公衆衛生研究所“L’Institut National de la Veille Sanitaire (INVS)”、英国ロンドンの健康保護局(The Health Protection Agency)の共同出資により運営され、また各国が記事を執筆、媒体も印刷版であった。2007年3月に“EUROSURVEILLANCE”はECDC(本部:スェーデンのストックホルム)で発刊されることとなり、2008年1月から緊急情報、ニュース、専門論文や感染症の爆破的拡大等を内容とする週刊オンライン・ジャーナル(四半期ごとのペーパベースの雑誌も引続き発刊されている)となった(同ジャーナルの現加入購読者数は約1万4,000人である)。
 なお、“EUROSURVEILLANCE”が発信する海外の感染症情報の重要性は、厚生労働省検疫所が発する「海外者のための感染症情報(FORTH)」の公式情報トピックス(2008年)でも頻繁に出てくることからも明らかであろう。

(筆者注3)本年2月に新型インフルエンザの感染増殖のメカニズムの研究成果を英国の専門雑誌“Nature”に発表したフランスの研究グループ(ウイルス宿主間相互作用研究連合:Unit of Virus Host Interactions :UVHCI)のことがわが国でも紹介されている。同グループは正確にいうとフランスの(ⅰ)グルノーブル第一大学(ジョセフ・フーリエ大学(Université Joseph Fourier:UJF))、(ⅱ)国立科学研究センター(Centre national de la recherche scientifique:CNRS)、(ⅲ)グルノーブル欧州分子生物学研究所(The European Molecular Biology Laboratory(EMBL):(欧州20か国の出資により1974年に創設された分子生物学の研究所。本部はドイツのハイデルベルクにあり、他にイギリスのケンブリッジ、フランスのグルノーブル、ドイツのハンブルク、イタリアに研究施設を有する)

(筆者注4)各種情報が混乱する中で、欧州委員会共同調査センター(Joint Research Center :JRC)は、既存の個別メディアや非公開の「早期警告対応システム(EWRS)」等専門告機関とは別に、世界43か国の新しいニュースを統合、分析ならびに警告を行うべく一般市民向けの3つのウェブ・ポータル(NewsBriefNewsExplorerNedISys)の統合サイト(Europe Media Monitor:EMM) 設置している。しかしこのプロジェクトでとりあげられている記事は雑多な情報の集合体であり、個別国の正しい情報が正確に伝わっているとは思えず、あまりお勧めではない。

(筆者注5)本原稿の執筆に当っては訳語の適確性も含め、次の論文、大学の講義資料および連載ブログを参考とした。新型インフルエンザに関する個人・企業の予防・回復策を疫学的に解明して欲しいと考えるのは当然であろう。なお、ブログの筆者自身は専門家ではないといっているが5回連載ブログ「数理科学からみたインフルエンザの脅威」の最終回の「伝染病の数理モデルおよび導出結果の有効性」の項目は是非読んでおくべきであろう。
①統計数理研究所54巻2号「感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題」西浦博、稲葉寿 
②奈良女子大学高鷲夫悟教授の講義用プレゼン資料「伝染病拡大の為の閾値」
③連山改「数理科学からみたインフルエンザの脅威」(②を元にまとめたものである)

(筆者注6)厚生労働省は平成21年4月29日付け「新型インフルエンザに係る対応について(平成21年4月28日健感発0428003号厚生労働省健康局長通知)」を発出しており、本通達が“H1N1”を前提にした政府としての行動計画が開始されたことになる。これを受けて従来出されていた事務連絡等を急遽見直し、平成21年5月1日付で「新型インフルエンザウイルス診断検査の方針と手引き(暫定版)」を発出しており、その際同日付けの「新型インフルエンザ積極的疫学調査実施要項(暫定版)」等を参照することとなっている(同省の今までの疫病調査に関するガイドラインは関連サイトで見られるとおり本年1月までは鳥インフルエンザである“H5N1” を対象としたものである)。
 これらの情報は「新型インフルエンザ最新情報」を見る必要がある。

(筆者注7)EU加盟国を中心とする感染症に関する国際的な早期警告や政策協調のための情報システムとして「早期警告対応システム(EWRS)」健康危機情報システム(HEDIS)および医療情報システム(MedISys)がありわが国でも国立感染症研究所も構成機関となっている。(「欧州の感染症対策システム:鳥インフルエンザを機に強化された各国連携」(NTTデータ:マンスリーニュース2006年9月号)、「EUの豚インフルエンザの情報収集や対応協議に着手(EU)」(ジェトロ:世界のビジネスニュース通商広報:2009年4月27日付)

(筆者注8) Coulombier D氏の論文は、わが国の厚生労働省検疫所「公式情報(データベース)」において要旨が紹介されている。

(筆者注9)“SIR model”については1927年Kermack McKendrickが考案したもので5月12日の本ブログで紹介した米国の理論物理学者Stephen Wolfram 氏が主催するWolframMathwold等でも簡潔に解説されている。非感染者集団(健常者:Susceptible))、感染集団(Infectious)、隔離集団(死亡または隔離・治癒)(Recovered)) これらの3つの構成要素の時間的変化を数式で記述したモデルである。したがって、このモデルが「SIR model」と呼ばれる。

〔参照URL〕
http://www.eurosurveillance.org/ViewArticle.aspx?ArticleId=19212

Copyright (c)2006-2009 福田平冶 All Rights Reserved.

0 件のコメント: